二千文字の地平_20240108

 

 一冊の本を読み終わる頃は、大抵、次の一冊を早く読み始めたい気持ち、今まさに読み終わろうとしている内容を反芻したい気持ち、読み終えた内容を整理して記録しておきたい気持ち、その本から受けたインスピレーションを基にして何かをアウトプットしたい気持ち、その他さまざまな気持ちが複雑に入り混じった状態でいる。行為としてはただ黒インクの上を延々と目線がたどってきただけなのだが、多くの場合は脳内でスパークが発生して、右にもいきたいが左にも行きたい、上を見ながら斜め後方にジャンプしたい、みたいな衝動がぶつかりあっている。本の内容によって衝動の現れ方が変わることもあり、例えばシリーズ物の痛快な小説であれば単に次巻を手にとれば良いのだが、「真面目な」学術書やエッセイ、要するに自分の思考を潤してくれるものの場合、大抵はその内容をより深く理解し地平を広げる手助けとなる関連本が大量に存在しており、迷い箸をしてしまう結果となる。エビ(≒参考文献)をちゃんと揚げておいてくれる本であればあるほど、食卓には大量のごちそう(=関連本)が並び、こっちを食べている間にあっちが冷めてしまう、なんてこともありうるのだ。積読という言葉があるが、この症状が重い人種は、きっとこの葛藤にぶちあたった末、とりあえず皿に盛ってから考えよう、と結論付けたのではないだろうか。

 かくいう私もそうで、特に乱読しているために、この積読のごった返し方は混沌としている。混沌の程度は、巷の本好きには到底及ばないだろうが、ともかく、私が最近きにしているのは、この乱読のせいで、関連する書籍同士が相乗的に発揮できる知的パワーの盛り上がりの機会を損失しているのではないかということである。食卓の例をこすって言えば、前菜で大辛麻婆豆腐を食べた後にアラビアータを食べ、メインに火鍋を食べるくらい、よくわからないコース料理を口にするようなものだ。それぞれの美味しさを感じることはできるだろうが、どこか勿体ない。いやそれどころか、何かを失しているようにさえ思われる。

 振り返ってみれば、私は概論や入門に最適な書物を読んでいることが多い。広くい見識を持つことは大事だし、いきなりtoo specificな論を展開されても私には理解不可能なのだが、それにしても、延々とこの入門書トラックを走り続けている気がする。そろそろ、一度読んだ入門書に現れた参考文献に対して腰を据えて取り組んでもよいのではないだろうかと思っている。

 もちろん、このことに気が付いたのが何も今日初めてというわけではない。大学のころにはいろいろな授業を教養として履修し、私の専攻である文学とは直接的にはかかわりがない内容(いや、かかわりがない領域など存在しないのだが、便宜的に)の入門書にも目を通した。授業でレポートを書いたりすると、(大抵は提出した後に)もっと知りたい内容が次々と浮かび上がり、4000円もする参考書を買おうか買わないか迷ったりしたのである。

 でも、である。でもそろそろ、わたしは何かを深堀しなければならにと思う。それは、永遠に万物の入門者でいることは、心構えとしては大切かもしれないが、実際それは何に対しても意見を言えず、分析する視座を得ることができない、悪性中立の状態に陥ると思うからである。すべての意見は主観的であり、不完全であり、批判されうるものであることはまた、読み手としてだけでなく、意見を発する主体としても経験されるべきなのである。

 したがって、私は、何らかの分野においてトラックを延々走り続けることを止め、というよりは走り越えること、トラックの外にでていかなければならない。おそらく最初は大通りで舗装がしっかりしていて、沢山の標識があり、行きたい場所に行けるし休みたいときに休めるであろう。私が最初の深堀り対象に選んだ本に親和するものが沢山視界に入るであろう。自分が知りたいと思った領域の、知らなかった事実や研究が続々と明らかになっていくであろう。

 そして、徐々にそうした慣れ親しんだ舗装道路は殺風景となり、アスファルトは罅割れ、道なき道へと続いていくであろう。そこでわたしが何かを発するとき、私は依然として〇〇から来た〇〇として、という話し方をしなければならないかもしれないが、どうじに、そこまで来た私はすでに入門者としてではなく、私自身として声を発することができるようになっているであろう。

 このようにして、トラックの外へと走り出ていくためには、関連する書籍の相乗効果を引き出すような組み合わせで、積読を消費していくべきだと思われる。

 だが同時に、忘れてはいけないこともある。つまり、どんな時であれ、情報を収集し考えるべきであることや、常に勉強し続けなければならないことも存在するということである。今回は詳しくは延べないが、前者であれば現在進行形で発生している、人道に反する行為や、後者であれば、私がマジョリティとして属するこの社会におけるマイノリティについて勉強することである。これらについては、別途、記していきたいと思う。

 

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2000文字くらいだったらこまめにかけるかなと思い、記述。SNSは本当にどうしようもない場所と化しているが、地獄から目を背けるだけではいけないこともある。

1月の混沌

 

 

僕は今年で30になる。嬉しくても悲しくても、重ねた年齢を戻したり進めたりそのままにしておくことはできない。僕はただ、29等分されている自分の過去が30等分にし直されるのを社会的に許可するようになるだけだ(このプロセスは、非常にスムーズかつ無自覚的に進む)。

そもそも、人生のどこかの時点で多くの人間が気付くように、年齢という数字そのものには何の意味もなく、さまざまな儀式や慣習や制度はそこに意味を持たせようとするが、実際に自分の生を生きる上で、身体細胞のどの一つですら、年齢などという摩訶不思議な数字のことは知らないのだ。

もう少し真剣に言えば、29歳の冬と30歳の冬との差異を、生物学的な差異として受け取る生物は存在しうるにしても(素数ゼミは観測者にとって「数学的」である)、我々が自身や社会を見る眼差しの中に、地球の公転ごとにインクリメントする謎変数をいちいち斟酌することは、スパゲティコードのローカル変数並に、つまり気持ち悪いが仕方なく使ってやっている程度のほんとうにしょうもないことなのだ。

そんなしょうもない数字であるのだが、しかし、30というのはあまりにもキリの良い数字であるので、29年間人間社会沼にはまってきた自分としては物申したくなってしまうのである。

 


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戦争があり、虐殺があり、運動があり、災害があり、時間があり、犯罪があり、ある瞬間、年が明けた。

年が明けるのだって、ほんとは事象ですらなかったものが、名付けによってほとんど自然現象かのように人々に認識されるようになったのだ。でも、地続きでもなんでもない「新年」に対して、今生じている全ての出来事はリアルであり、「あけおめ」や「ことよろ」よりも"よっぽど実在"している。

 

何もしなくても過ぎていくこと、何もしなければ起こらないこと、何をしても変わらないこと、何かすれば変わること、そのカテゴライズに僕らは長けている、と思ってしまう。自分の見聞きした事項をこれらのどこかに落とし込んで、自分なりのスタンスを決め、できることをやろうと思ってしまう。

僕はそれが、正しいことだと思う。できることしかできない、というより、やれることはできることでしかない。ペシミズムでも現実論者でもなく、論理的にそういうもので、地球の反対側のすでに発射された銃弾を止めることができなかった事を、自分の責任にすることはない。すべきではないし、できない。

けれども、これは、自分ができないことや自分の知らないことを全て放棄するスタンスではない。

できることからやる、は不本意な諦めの境地である。僕にはできることしかやれないのだ、と自分を恥じながら認め、屈折した自己肯定を行うことは、誰もが自分自身を容認してよいというメッセージですらある。

結果、できることが何もなくても良い。連帯できないこともあり、容認できないこともあり、その時ただ何となく、タイミングが悪くて何もできなくても良い。

僕らはなんの意味もないはずのものに意味をもたらして世の中を混沌に陥らせてきたのだから、その逆をやってもよいはずだ。意味あると思われていることから、意味あると思わされてきたことから、それらを剥奪すること。解放されること。

 

////20230103 追記 start

からまってがんじがらめになった構造を紐解いて、社会をリファクタリングしよう。僕らが日々固執する諸々の事項にこびりついた、意味という垢をこすり落とすのだ。

 

 

僕は今悲しい。社会的経済的文化的に、僕一人の力では誰の生存を支援することもできないという事実を原因として、自分に悲嘆を喚起している。自分の無力により、僕は連帯の感情をもつことができている。

僕はまた、他人が困り、傷つき、悲しむことが、素直に悲しい。自分が陥る、あの闇の沼の中にいる恐怖と痛みを、他の誰であれ感じているのが悲しい。そしてそれが、自分の想像の遥か及ばない、激烈で気の遠くなるほど大きく重いものであることが悲しい。

 

この悲嘆は、僕の力の源となり、その力によって僕が行うことが、困っている誰かを救うことがあるだろう。

けれども、僕自身、そんな悲嘆にくれるより、全てが喜びに満ちた生活の方が、余程嬉しいのだ。

したがって、思う。

////20230103 追記 end

 

僕らが自分自身の平和と平穏をキープすることそれ自体を、何かに侵害されてはいけない。 

 

 

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全てを放棄するスタンスではないのであれば、それは何なのか?

つまり、悲劇を共有したり怒りを連帯したり正義を掲げることは、社会に自分の生のわずかでも(不本意であれ)世話になった人間であれば、すべき行為であるが、同時に、今あなたがなんらかの形で平和や平穏を享受できるのであれば、できることならそれを享受すべきである。

極端に言えば、世界80億人全ての間に一つの諍いもなくなるまで笑ってはいけない、などというルールは作りようがないのである。

僕らは、この自らの享受できる平和と平穏のために「できる範囲で何かをする」というスタンスをとることを誰にも制限されるべきではない。今もしあなたが平穏な場所にいるのであれば、それは、過酷な場所にいる人間の希望であり、平和を求める意味になるのだから。

 

そうはいっても、大きな落とし穴がある。とことんアンテナを張って様々に見聞きしない限り、自分ができる行動の範囲を知ることなど不可能なのだ。

さらに言えば、「できることからやる」を「既に知っていて簡単に達成可能ならやる」と履き違えてはいけない。それはただの放棄、人生の無気力試合である。

僕らは常に変化し続ける世界及び自己自身に対して、「今何ができるか?」という問いを立て続けるべきである。もしあなたがその時、何にもエネルギーを注げず、生存で精一杯ならば、それは「今できることはない」のであり、できないことが正しいのである。その場合はしばらく、問いを立てなくても良いと思う。

けれども、もし今、自分の思考が外向きに開いたのを感じているならば、F5キーを連打するように、この境界を問う行為だけは、常に行なわなければならない(だって、考えるとは、こういうことではないだろうか?)。

僕らが各々知っていること、体験したことは、この世の「すべて」のうち、一体何%に及ぶのだろうか。可能であったのにあなたが選ばなかった行動は今までどれだけ存在していただろうか。その膨大な事象の砂漠に埋もれたままでいる、各々の次の戦略的一手を知覚すべきではないか?

 

こうなると、もはや自分のできる範囲を知ることも不可能ではないか、と思われるが、だからこそ、「不本意な諦めの境地」なのだ。そうした、自分ができる行為の範囲を知ることすら不可能な自分を恥じながらも容認し、「できることからやる」ことが、屈折した自己肯定なのだ。

 

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昨日より何か深く考えたつもりでいる時、僕は最も危険な思想をもった人物となる。昨日よりも良い自分になったと錯覚している。

全て他者が思想言語身体経験その他全てにおいて尊重されるように、自分の過去もまた尊重しなければならない。無限に進歩を掲げて邁進していく社会や世界というマクロな領域において、不完全で欠落した自分自身を覚えておくことは、すなわち、そうしたマクロの文脈で取りこぼされ置き去りにされかねない他者に気がつく眼差しを忘れないでいることだ。

僕は昨日より優しい人間であることを目指すが、それは、何かマッチョに進歩を目指すからではなく、この世には自分の知らない領域が常に隠れていて、それを見落とすことが怖いからである。

 

 

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マテリアル系メモ。

・持ち運んでどこでも書けるように買ったsurfaceを、自分の家に忘れてきてしまった。iPhoneで書くとどうしても、メモのようになってしまう。フリック入力は手書きやマテリアルでのキーボード入力に比べて大幅に脳みそのリソースをさかれる。今日書いたことも、今のところなんだかちぐはぐな文章だ。

 

改訂 2024/1/3

先生が廊下の先を曲がってきた瞬間を見る

 

公立中学校に上がって最初の学期に学級委員になる人間は、私の経験上二種類に大別できる。

一つは運動神経が良くネアカで生徒から信頼され、さらに教職員ともウマをあわせて愚鈍な10代を率いる未来のリーダーで、もう一つは、とりあえず真面目な人間(つまり当時の私)である。前者は本項に登場しないのでこれ以上仔細な説明は行わない。

 

とりあえず真面目な人間、すなわちトリマジメは自己主張が控えめで、ふざけることも少なく、かといって根暗かと言われると半分くらいは根暗だが、友達をたくさん作るくらいの明るさももっている。

このような人間は他に適当な生徒がクラスにいない場合には学級委員として白羽の矢が立つ。上司にしたくない人間ランキングで最下位になれるほど、最も嫌われない人間であるからだ。

 

 

責任という二文字は、教職員らが未来ある子供のためを思って、彼らの自主性や社会性を育むべく乱発するのだが、実際にトリマジメの背中にのしかかる時はその重量1tを優に超える。クラス内で「責任」とかいう単語をこの時点で知っているものはごくわずかなのだが、トリマジメはこの類のセンサーに極めて優れており、中学校で教わる人徳や社会的コードを同年代の他の生徒に比べて圧倒的に多く保有しており、ありとあらゆる手段で大人たちの望む役を演じることができるのだ。

彼らはこの責任の二文字を完全に遂行すべく、あらゆる努力を尽くすのだが、その究極系の一つが、「誰よりも早く教職員の存在を検知する」である。

授業開始時間になってもふざけ合い騒いでいる同級生を真に着席させるべき時間は授業開始時間ではなく、授業担当の教職員が教室にやってくるタイミングである。

 

そして今日は12月31日であり、わたしのように真面目な人間はまた、次の年が来る前にひとつ、来年の書く行為への足がかりを作ろうとしているのである。