1月の混沌

 

 

僕は今年で30になる。嬉しくても悲しくても、重ねた年齢を戻したり進めたりそのままにしておくことはできない。僕はただ、29等分されている自分の過去が30等分にし直されるのを社会的に許可するようになるだけだ(このプロセスは、非常にスムーズかつ無自覚的に進む)。

そもそも、人生のどこかの時点で多くの人間が気付くように、年齢という数字そのものには何の意味もなく、さまざまな儀式や慣習や制度はそこに意味を持たせようとするが、実際に自分の生を生きる上で、身体細胞のどの一つですら、年齢などという摩訶不思議な数字のことは知らないのだ。

もう少し真剣に言えば、29歳の冬と30歳の冬との差異を、生物学的な差異として受け取る生物は存在しうるにしても(素数ゼミは観測者にとって「数学的」である)、我々が自身や社会を見る眼差しの中に、地球の公転ごとにインクリメントする謎変数をいちいち斟酌することは、スパゲティコードのローカル変数並に、つまり気持ち悪いが仕方なく使ってやっている程度のほんとうにしょうもないことなのだ。

そんなしょうもない数字であるのだが、しかし、30というのはあまりにもキリの良い数字であるので、29年間人間社会沼にはまってきた自分としては物申したくなってしまうのである。

 


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戦争があり、虐殺があり、運動があり、災害があり、時間があり、犯罪があり、ある瞬間、年が明けた。

年が明けるのだって、ほんとは事象ですらなかったものが、名付けによってほとんど自然現象かのように人々に認識されるようになったのだ。でも、地続きでもなんでもない「新年」に対して、今生じている全ての出来事はリアルであり、「あけおめ」や「ことよろ」よりも"よっぽど実在"している。

 

何もしなくても過ぎていくこと、何もしなければ起こらないこと、何をしても変わらないこと、何かすれば変わること、そのカテゴライズに僕らは長けている、と思ってしまう。自分の見聞きした事項をこれらのどこかに落とし込んで、自分なりのスタンスを決め、できることをやろうと思ってしまう。

僕はそれが、正しいことだと思う。できることしかできない、というより、やれることはできることでしかない。ペシミズムでも現実論者でもなく、論理的にそういうもので、地球の反対側のすでに発射された銃弾を止めることができなかった事を、自分の責任にすることはない。すべきではないし、できない。

けれども、これは、自分ができないことや自分の知らないことを全て放棄するスタンスではない。

できることからやる、は不本意な諦めの境地である。僕にはできることしかやれないのだ、と自分を恥じながら認め、屈折した自己肯定を行うことは、誰もが自分自身を容認してよいというメッセージですらある。

結果、できることが何もなくても良い。連帯できないこともあり、容認できないこともあり、その時ただ何となく、タイミングが悪くて何もできなくても良い。

僕らはなんの意味もないはずのものに意味をもたらして世の中を混沌に陥らせてきたのだから、その逆をやってもよいはずだ。意味あると思われていることから、意味あると思わされてきたことから、それらを剥奪すること。解放されること。

 

////20230103 追記 start

からまってがんじがらめになった構造を紐解いて、社会をリファクタリングしよう。僕らが日々固執する諸々の事項にこびりついた、意味という垢をこすり落とすのだ。

 

 

僕は今悲しい。社会的経済的文化的に、僕一人の力では誰の生存を支援することもできないという事実を原因として、自分に悲嘆を喚起している。自分の無力により、僕は連帯の感情をもつことができている。

僕はまた、他人が困り、傷つき、悲しむことが、素直に悲しい。自分が陥る、あの闇の沼の中にいる恐怖と痛みを、他の誰であれ感じているのが悲しい。そしてそれが、自分の想像の遥か及ばない、激烈で気の遠くなるほど大きく重いものであることが悲しい。

 

この悲嘆は、僕の力の源となり、その力によって僕が行うことが、困っている誰かを救うことがあるだろう。

けれども、僕自身、そんな悲嘆にくれるより、全てが喜びに満ちた生活の方が、余程嬉しいのだ。

したがって、思う。

////20230103 追記 end

 

僕らが自分自身の平和と平穏をキープすることそれ自体を、何かに侵害されてはいけない。 

 

 

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全てを放棄するスタンスではないのであれば、それは何なのか?

つまり、悲劇を共有したり怒りを連帯したり正義を掲げることは、社会に自分の生のわずかでも(不本意であれ)世話になった人間であれば、すべき行為であるが、同時に、今あなたがなんらかの形で平和や平穏を享受できるのであれば、できることならそれを享受すべきである。

極端に言えば、世界80億人全ての間に一つの諍いもなくなるまで笑ってはいけない、などというルールは作りようがないのである。

僕らは、この自らの享受できる平和と平穏のために「できる範囲で何かをする」というスタンスをとることを誰にも制限されるべきではない。今もしあなたが平穏な場所にいるのであれば、それは、過酷な場所にいる人間の希望であり、平和を求める意味になるのだから。

 

そうはいっても、大きな落とし穴がある。とことんアンテナを張って様々に見聞きしない限り、自分ができる行動の範囲を知ることなど不可能なのだ。

さらに言えば、「できることからやる」を「既に知っていて簡単に達成可能ならやる」と履き違えてはいけない。それはただの放棄、人生の無気力試合である。

僕らは常に変化し続ける世界及び自己自身に対して、「今何ができるか?」という問いを立て続けるべきである。もしあなたがその時、何にもエネルギーを注げず、生存で精一杯ならば、それは「今できることはない」のであり、できないことが正しいのである。その場合はしばらく、問いを立てなくても良いと思う。

けれども、もし今、自分の思考が外向きに開いたのを感じているならば、F5キーを連打するように、この境界を問う行為だけは、常に行なわなければならない(だって、考えるとは、こういうことではないだろうか?)。

僕らが各々知っていること、体験したことは、この世の「すべて」のうち、一体何%に及ぶのだろうか。可能であったのにあなたが選ばなかった行動は今までどれだけ存在していただろうか。その膨大な事象の砂漠に埋もれたままでいる、各々の次の戦略的一手を知覚すべきではないか?

 

こうなると、もはや自分のできる範囲を知ることも不可能ではないか、と思われるが、だからこそ、「不本意な諦めの境地」なのだ。そうした、自分ができる行為の範囲を知ることすら不可能な自分を恥じながらも容認し、「できることからやる」ことが、屈折した自己肯定なのだ。

 

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昨日より何か深く考えたつもりでいる時、僕は最も危険な思想をもった人物となる。昨日よりも良い自分になったと錯覚している。

全て他者が思想言語身体経験その他全てにおいて尊重されるように、自分の過去もまた尊重しなければならない。無限に進歩を掲げて邁進していく社会や世界というマクロな領域において、不完全で欠落した自分自身を覚えておくことは、すなわち、そうしたマクロの文脈で取りこぼされ置き去りにされかねない他者に気がつく眼差しを忘れないでいることだ。

僕は昨日より優しい人間であることを目指すが、それは、何かマッチョに進歩を目指すからではなく、この世には自分の知らない領域が常に隠れていて、それを見落とすことが怖いからである。

 

 

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マテリアル系メモ。

・持ち運んでどこでも書けるように買ったsurfaceを、自分の家に忘れてきてしまった。iPhoneで書くとどうしても、メモのようになってしまう。フリック入力は手書きやマテリアルでのキーボード入力に比べて大幅に脳みそのリソースをさかれる。今日書いたことも、今のところなんだかちぐはぐな文章だ。

 

改訂 2024/1/3